「心が折れた」と叫ぶ承認欲求女の末路
・他人からは責任全転嫁に聞こえる言葉
ある女性から、「心が折れたんです」という言葉を聞いた。
退職の手続きをしながら、3回くらい同じ言葉を聞いた。まあ様々な事情があってのその言葉だったことも分かるのだけれども、その様々な事情の内容をほとんどすべて分かっていた上司と私にとっては、いやいや、君の事情をこちらのせいにされましても、という感想以外持てなかった。
内実はともかく、結果として上司と私の彼女への印象は「事情を会社のせいにして、自分を変えようとしなかった人」だったという印象で終わってしまった。
私の心は自分一人で勝手に折れたのではない、周りのせいで折れてしまったのだ。折れられてしまったのだ。折ったのだから責任を取って欲しい。私は悪くない。
と言いたげだった、という印象で終わってしまった。
きっと、上司はもうこの出来事なんて忘れていると思う。
それなのにどうしてこの言葉が私の中でわだかまっているかと言えば、他でもなく、私がこの言葉を連発していたからだ。
・口にしてる間は自覚がないのに、気づくと囚われている
どうして連発していたかと言えば、承認されたい欲で狂っていたからだった。
why
・感想が来ないから、誰かに読んでもらってるのか実感が湧かない
・自分の文章が求められてるのか分からない
・そもそも私の書くものに価値があるのか……?
・あ~~~~~~チヤホヤされてえ~~~~~~~
・ついでに売れたい
↓
・私なんかが書いてもいらないよね><とかいう卑下と構ってアピール
(なお、構ってはもらえない)
・心が折れました><もう書けないかも><
(なお、構ってはもらえない)
↓
result
・心が折れたとか書けないとかを自分で言いすぎて、もはや言い聞かせるようになっていたらしく、本当に書けなくなったのだった。完
結果にコミットしすぎ。
・人のせいにすると気が楽
そもそも私はもともと人気者になるタイプではない上に、とくに努力もしていない。
・プライドが高すぎてプロモーションがド下手くそ
・短い文章だとしても、オンラインで気軽に無料で読めるものをたくさん上げてそもそも人の目に触れる機会を増やすこともなく書き下ろしで本を出すだけ
・そもそも人を選ぶタイプの文章を書いている
・トレンドに乗る気も人気がありそうなものを書く気もない
そもそも技巧が足りないとかそういうのも含め、そんなこと何年も前から分かっていた、ある意味では、自分の個性でもあるはずだった。
それで、作風やプロモーションの方法を改善せずに万人から評価されたいというのは無理な話なのだ。
しかしツイッター上には、私の好きな作家含むいろんな人からちやほやされている人というのが何人もいる。だから勘違いしてしまったのだ。
だから私もちやほやしてもらえるんじゃないかと思ってしまった。
ツイッターとはおそろしいところである。使い方も下手くそすぎる。
・末路でのの字を書いている
心が折れたと言っていたのは「私が書くものを誰も褒めてくれない」「本当はもっと評価されるはずなのに」「評価してくれない周りがおかしい」と、周りのせいにしているとものすごく気が楽だからだった。
それに気づいてむなしくなるも、承認欲求ストップ高状態なのでやめることができない。
かといって誰かがそれに寄り添って撫でてくれるわけでもない。
結局、自分で心どころか筆まで折って、書かないことで全部から逃げた。
書いていなければ最初から評価されることを求めなくてもいいし、評価がないことに苦しまなくてもいいし、評価されていないことをだれにも観測されることがない。
評価されない私、を観測しなくていい。
というところまで落ちているのが、現在の私の状態である。
愚かな末路ということばがふさわしい。
しかし諦めも悪い上に負けず嫌いなので、のの字を書いているのにもいずれ飽きるだろう。
それに、文章を書く以外のことに目を向ける余裕もできたように感じる。
は〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜???!!
普通の人はもっとうまくそういうバランスとってるんでしょ???!知ってるよ!!
今週のお題「2017年にやりたいこと」
今日はちゃんとお題に取り組むことにする。
とはいえ、実はいま「やりたいこと」というのがあまりにもぼんやりとしている。
「やりたいこと」と「やるべきこと」は少し違うので、そこは分けて考えたいところだけれど、やっぱり微妙に被ってしまう感じもある。
でもやるべきこととしてはっきりしているのは「生活のシステム化」なので、また別に書きたいと思う。
・文章を書く
この数年、ツイッター以外で自分の意見や考えていることを文章として書くことをしていなかった。今年はそういう文章を書きたい。物語ではない文章を書きたい。
ブログもそうだし、映画のレビューや、ライティングの仕事もしてみたい。
小説という創作はとても楽しい。自分のことを書いているわけではないからこその楽しさがある。誰かの人生の物語をこの手で紡げることが、どれだけ楽しく素晴らしいことか、よく知っている。
だからこそ今年は、自分のことを書いてみたいと思った。誰かの物語を紡ぐことに執心して今まで見逃してきた、目を逸らしてきた自分のことをもっと考えたい。
自分を蔑ろにしたままでも小説は書けるけれど、そのままではきっと限界がくる。現に今ちょっと限界になっている。
もっと抉りたい。誰かの心に突き刺さって抜けないような文章を書きたい。揺さぶりたい。
そのために今、自分と向き合って抉れるだけ抉りたいし、内側に潜るための文章を書く時間をたくさん持ちたいと思う。
・映画を見て、本を読む
去年は映画館とDVDで通算25本の映画を観ていた。映画フリークの人からしたら少ない本数なんだろうけど、多分私の人生の中では一番観た年になったと思う。今年も同じくらい見れたらいいなあ。
今年は実写化ものが豊作そうで、いま一番楽しみなのは「3月のライオン」。
1月は「ドクターストレンジ」、2月は「La La Land」、3月4月に「3月のライオン」、4月はエマワトソンの「美女と野獣」。
楽しみが続くなあ。他にもおすすめがあったらぜひ教えてもらいたい。
本は読みたい読みたいと思いながらkindleのカートに入ったままのとかがあるし、先日はカートどころか購入済みでダウンロードまでしておいて読んでいない本を結局紙の書籍で買ったのだった。
やっぱり紙の方が読む気が湧くから、読みたい!と思ったらもう書店で買うのが良いのかな。大きくてかさばるって分かっているのに、文庫より単行本のほうがテンションが上がってしまう。本棚も欲しい。物欲はなくならず。
・人に会う
数年単位であっていない人や、よく会う人や、会ったことがない人も含めて、いろんな人に会いたい。
1月2月はさっそく人に会う予定が詰まっていて楽しみ。京都や広島へ旅行にも行くし、ライブもあるし、春先には高知にも出かけたい。
(締め切りがないのでスケジュールを原稿に合わせて考えなくて良いのは、生活に張りがなくなってるような気もするけどだいぶ気が楽になった)
昨日会った友人たちとも話してたけど、彼女たちとはもう五年くらいの付き合いで、今は好きなものも違うのに昔と同じようにどうでも良い話をしながら美味しく酒が飲める。
そういう人たちを大切にしたいし、ここ一年くらいの出会いやこれからの新しい出会いも大切にしたい。
昔からいわゆる仲良しグループみたいなのの一箇所にいることができなくて、そのせいで「友人は多いように見えるけど実は孤立している」パターンにハマりがちなんだけど、もうこの歳になるとあまり気にならなくなってくる。
自分がどこかに所属していることに固執して他のグループの誰かと交流するチャンスを失うほうが、私にとっては損なことなんだと思う。
そこそこ仲良くしていた人たちの集まりに呼ばれなかったりするとさすがに寂しい気持ちにもなるけれど、そこがすべてじゃないんだと思っていたいし、そことは関係なく私を誘ってくれる人もいるし、私が誘いたい人もたくさんいる。
(これは完全に負け惜しみの感があるけども)
人に会って、話をして、その倍、自分ひとりの時間も大切にしたい。
文字を打つのが楽しくてついつい冗長になってしまう。でも、楽しいし嬉しい。
明日は仕事初めだから、今日のうちに生活のシステム化について考えておこう。
年始なので、今の自分のことを理解しておく
今週のお題「2017年にやりたいこと」を考えるにあたってぽつぽつと文字を書いていたら、やたらと長くなってしまった上に、「やりたいこと」の前段階のような気がしたので、記事を分けることにした。
・現状の意思の弱さを直視する
絶対にこの本を出す!とかこの話を書いてみせるとか、そういう、覚悟みたいな意志はそんなに弱くはないと思うけど、明日何文字書こうとかそのために何時に起きようとか机を片付けようとかそういう些細なこと、日常的なことへの意思の弱さは嫌というほどよく自覚している。
基本的に、面倒くさがりで、意思の弱い自分をちょっと可愛いと思っているのだ。
可愛いというのは、キュート的な意味ではなく、可哀想という意味の、自己愛によるものだと思う。
私は、22時くらいまでに及ぶ残業が数日続いたり、やれなくはない程度だけれど面倒な仕事を言いつけられたり、やたらと風邪を引いたり、身体の調子が悪かったり、疲れていたり、そういう可哀想な私、を可愛いと思っている。
本当は日中に集中してやれば22時までかからないことを知っている。
仕事中にのんきにツイッターをみたりブログを読んだりしているせいだ。
やれなくはない仕事は、本当にやれなくない。だいたい雑務だし、それができないほど能力がないわけではない。
面倒な仕事をやらされて大変な私、に浸っている。だから後輩(だいぶ年上だけど)に私はこんなに大変なのアピールをしたり、ツイッターで仕事の詳細を知らない友人の慰めを得て満足している。
やたらと風邪を引くのも身体の調子が悪いのも疲れているのも不摂生のせいなのに、身体の弱い私、みたいなものを演出しているだけ。(まあ結果として身体は弱くなってるんだろうけど)
そういう馬鹿馬鹿しいことを、もうやめたい。
・苦労、という言葉の持つ力
たぶん私は、苦労した人をすごい、と思う性格なんだろうし、人生の中でいろんな「苦労をしているえらい人」を見てきて、苦労していることがえらいこと、だとも思っている。
ツイッターでも同じように作品を作っている人がそれこそ深夜まで残業のある激務だったり、休みがないのに本を出している現状を見ていた。だからそれくらいつらく大変な思いをしなければならないのだと思ったし、同じくらい仕事に追われて大変であれば、入稿がぎりぎりになることも、ページ数が少ないことも、うまく書ききれないことも、ひいては、界隈で受けないことも売れないことも、評判に上がらないことも、誰かの一番になれないことも、すべてのことへの免罪符になるような気がしていた。
苦労してないように見える人を僻んだり、どうせ才能があるんだろう、と自分とは最初から違うんだと思うことで、それができない自分を慰めていた。
けれど、そんなことを悶々と考えていたところで、ネガティブになるだけなったところで、結局得るものは何もなかった。
「私には何もない」と言いながら、可哀想な私に浸りすぎて、本当に何もなく、可哀想な私になってしまった。
・ネガティブな状態が標準になるとろくなことがない
ネガティブになりすぎると、本当に何もかもに意欲がなくなってしまう。
本を読むのも遅くなったし、テレビも流しているだけで見ていられない。ゲームはすぐに飽きてしまう。服を見たり選ぶのも好きだったはずなのに、着られればいい、なんて思いになっていることに気づく。文章なんて書く気も起こらない。仕事はやる気がなくなる。
唯一、映画は映画館に入ってしまえば缶詰状態で流してくれて、受動的に見ていられるから、去年は平均して月に二、三回は映画館に通っていた。
秋からはフィルマークスでレビューとも言えないような感想をつけるようになった。
何もしていない、何も書いていないのが、いよいよ耐えられなかったからだ。
感想にたまにいいねがつくのも、映画を見て「面白かった!」と感情が動くのも、嬉しかった。救われたところがある。
huluやアマゾンプライムにも入っているけれど、そういう端末で一日中映画を見ていられるかというと、そうでもない。集中力が続かないのだ。
多分、映画を見ているだけでいいのだろうか、という変な焦りみたいなものもあるんだと思う。
家にいるのに、掃除しなくていいのか、机や本の整理をしなくていいのか、もっと他にやることがあるのでは、等々。
まだうまくできないな、と思うけれど、とりあえず、観たいものや興味のあること、楽しみなことがあるというのは自分にとっていいことなんだと思う。
リハビリになっていると思って、もう少し続けてみるつもりだ。
・結局どうしたいのか
私はしたたかだし、ちゃんとした生活を余裕で送れるし、仕事も早い。
そういう自分でありたい。多分、できるくらいの能力は持っているのに、やっていないだけだ。
最近 、生産性の本を読んだけれど、今の自分は生産性を上げることにも抵抗している。
何かで読んだけれど、人の感じる恐怖心の中でも「成功への怖れ」は大きいものらしい。
成功する一歩手前で足踏みをして現状維持に徹していれば、犠牲にするものもないし、失敗することもない。成功したあとの落ちていく過程も経験しなくていい。だれかにあなたの「成功」はこんなものなの?って嘲られることもないし、成功への過程で発生した金額的なコストや精神的なコストを振り返って後悔することもないだろう。
でも、やっぱり現状維持なんてない。歳をとっていくし、変わらないでいることで見えるのは下降線だけだ。
がんばっててえらいわねえ、と言われて喜んでいられる精神は、高校卒業と同時に置いてこなければいけなかったのだ。
えらいわねえ、ではなくて、私が彼女たちに対してそう思ったように、いっそ僻まれたい。
とりあえず一歩
なにかはじめよう、と思ったので、ブログをつくった。
ブログをやるのなんて、何年ぶりのことだろう。
8年?10年?くらい前までは、mixiもやっていたし、ブログも持っていたし、ホームページだって、タグを検索してはポチポチと手打ちして作っていたはずなのに、ツイッターが流行りはじめてから、わたしのアウトプット方法は一変したように思う。
友達も知り合いもすっかりツイッター上でのやりとりや付き合いが多くなって、そのうちラインが出来て、いまやほとんどがリアルタイム、オンライン更新で言葉が流れていく。(フェイスブックは登録はしているものの、あまり活用してはいない)
ツイッターをはじめてからも8年くらい?
気づくのが遅かったのだけれど、最近のわたしは、ちょっとした思うことや、考えていることを、うまく書き出すことができなくなった。
ツイッターで呟いたことにファボ(いまはいいねだけど)がつかないことに一喜一憂したり、いまのタイムラインはこういう話題じゃないからこの話はやめとこうなんて変な気をつかってみたり、相互フォローの重さにめんどうになったり、リプライが来たらすぐに返さなきゃと妙に焦ったり。
次第に、自分のホームは「仕事つかれたなあ」なんていうしょうもない独り言と、仲の良い友人へのリプライばかりになっていてた。
もちろん、盛り上がっているタイムラインに乗っかって、友人や、まだ知り合いくらいの関係だけれど好きな人たちとわいわいするのは、すごく楽しい。
話題の内容だって、わたしの大好きなもののことだ。
好きな話題を好きな人たちと、リアルタイムで、チャットのようなごくクローズドな場所ではなく他の人も見ることが出来て、ときには見る側になって、わいわい話す楽しさは、きっとツイッターでなければ叶わない。
でも、もう少し考えを練ってから出したいのにとか、140文字にうまく収まらないとか(なるべくおさめたい欲)、気づけば他の人によって違う方向に持って行かれていたりとか、そういうもどかしさの積み重ねがもうかなりある。
ログインをして、お気に入りのフォロワーをまとめた非公開リストをざっと見て、そのまま閉じることも多くなった。
つながっている人たちに不満なんてひとつもない。(これはさすがにうそだ。ひとつやふたつやみっつやよっつはある)
しかしとにかく、疲れてしまった。
こうして字数を気にせずに文字を打っていて、ああ、文章を書けるのかと思った。
わたしは、140文字では到底収まらない、何万字にも及ぶ文章を書くことを、この5年ほど続けていた。
けれど最近になって書けなくなった。一文字も書けずに、逃げだしている最中なのだ。140文字じゃあ足りないと思っていたはずなのに、一文字も打てないでいる。わけが分からない。
それでも、いまこうして取りとめの無いことを気の赴くまま書いていて、楽しい。
楽しいと感じられたことに、涙が出そうだ。
書きたいことがたくさんある。
それは誰かの役に立つものでも、世界を激変させるようなことでもないけれど、書きたいことがあるのだというだけで、こうして書くことができると分かっただけでも、ブログをつくった甲斐があった。