年始なので、今の自分のことを理解しておく
今週のお題「2017年にやりたいこと」を考えるにあたってぽつぽつと文字を書いていたら、やたらと長くなってしまった上に、「やりたいこと」の前段階のような気がしたので、記事を分けることにした。
・現状の意思の弱さを直視する
絶対にこの本を出す!とかこの話を書いてみせるとか、そういう、覚悟みたいな意志はそんなに弱くはないと思うけど、明日何文字書こうとかそのために何時に起きようとか机を片付けようとかそういう些細なこと、日常的なことへの意思の弱さは嫌というほどよく自覚している。
基本的に、面倒くさがりで、意思の弱い自分をちょっと可愛いと思っているのだ。
可愛いというのは、キュート的な意味ではなく、可哀想という意味の、自己愛によるものだと思う。
私は、22時くらいまでに及ぶ残業が数日続いたり、やれなくはない程度だけれど面倒な仕事を言いつけられたり、やたらと風邪を引いたり、身体の調子が悪かったり、疲れていたり、そういう可哀想な私、を可愛いと思っている。
本当は日中に集中してやれば22時までかからないことを知っている。
仕事中にのんきにツイッターをみたりブログを読んだりしているせいだ。
やれなくはない仕事は、本当にやれなくない。だいたい雑務だし、それができないほど能力がないわけではない。
面倒な仕事をやらされて大変な私、に浸っている。だから後輩(だいぶ年上だけど)に私はこんなに大変なのアピールをしたり、ツイッターで仕事の詳細を知らない友人の慰めを得て満足している。
やたらと風邪を引くのも身体の調子が悪いのも疲れているのも不摂生のせいなのに、身体の弱い私、みたいなものを演出しているだけ。(まあ結果として身体は弱くなってるんだろうけど)
そういう馬鹿馬鹿しいことを、もうやめたい。
・苦労、という言葉の持つ力
たぶん私は、苦労した人をすごい、と思う性格なんだろうし、人生の中でいろんな「苦労をしているえらい人」を見てきて、苦労していることがえらいこと、だとも思っている。
ツイッターでも同じように作品を作っている人がそれこそ深夜まで残業のある激務だったり、休みがないのに本を出している現状を見ていた。だからそれくらいつらく大変な思いをしなければならないのだと思ったし、同じくらい仕事に追われて大変であれば、入稿がぎりぎりになることも、ページ数が少ないことも、うまく書ききれないことも、ひいては、界隈で受けないことも売れないことも、評判に上がらないことも、誰かの一番になれないことも、すべてのことへの免罪符になるような気がしていた。
苦労してないように見える人を僻んだり、どうせ才能があるんだろう、と自分とは最初から違うんだと思うことで、それができない自分を慰めていた。
けれど、そんなことを悶々と考えていたところで、ネガティブになるだけなったところで、結局得るものは何もなかった。
「私には何もない」と言いながら、可哀想な私に浸りすぎて、本当に何もなく、可哀想な私になってしまった。
・ネガティブな状態が標準になるとろくなことがない
ネガティブになりすぎると、本当に何もかもに意欲がなくなってしまう。
本を読むのも遅くなったし、テレビも流しているだけで見ていられない。ゲームはすぐに飽きてしまう。服を見たり選ぶのも好きだったはずなのに、着られればいい、なんて思いになっていることに気づく。文章なんて書く気も起こらない。仕事はやる気がなくなる。
唯一、映画は映画館に入ってしまえば缶詰状態で流してくれて、受動的に見ていられるから、去年は平均して月に二、三回は映画館に通っていた。
秋からはフィルマークスでレビューとも言えないような感想をつけるようになった。
何もしていない、何も書いていないのが、いよいよ耐えられなかったからだ。
感想にたまにいいねがつくのも、映画を見て「面白かった!」と感情が動くのも、嬉しかった。救われたところがある。
huluやアマゾンプライムにも入っているけれど、そういう端末で一日中映画を見ていられるかというと、そうでもない。集中力が続かないのだ。
多分、映画を見ているだけでいいのだろうか、という変な焦りみたいなものもあるんだと思う。
家にいるのに、掃除しなくていいのか、机や本の整理をしなくていいのか、もっと他にやることがあるのでは、等々。
まだうまくできないな、と思うけれど、とりあえず、観たいものや興味のあること、楽しみなことがあるというのは自分にとっていいことなんだと思う。
リハビリになっていると思って、もう少し続けてみるつもりだ。
・結局どうしたいのか
私はしたたかだし、ちゃんとした生活を余裕で送れるし、仕事も早い。
そういう自分でありたい。多分、できるくらいの能力は持っているのに、やっていないだけだ。
最近 、生産性の本を読んだけれど、今の自分は生産性を上げることにも抵抗している。
何かで読んだけれど、人の感じる恐怖心の中でも「成功への怖れ」は大きいものらしい。
成功する一歩手前で足踏みをして現状維持に徹していれば、犠牲にするものもないし、失敗することもない。成功したあとの落ちていく過程も経験しなくていい。だれかにあなたの「成功」はこんなものなの?って嘲られることもないし、成功への過程で発生した金額的なコストや精神的なコストを振り返って後悔することもないだろう。
でも、やっぱり現状維持なんてない。歳をとっていくし、変わらないでいることで見えるのは下降線だけだ。
がんばっててえらいわねえ、と言われて喜んでいられる精神は、高校卒業と同時に置いてこなければいけなかったのだ。
えらいわねえ、ではなくて、私が彼女たちに対してそう思ったように、いっそ僻まれたい。